アポロン神殿旅行記
トルコ旅行記(4):4月1日:イスタンブール・大競技場址、ブルー・モスク(by 旅人のくまさんさん)
<2007年4月1日>
夜の散策を終えてから、シャワーを浴びて、就寝したのは23時頃でした。昨日現地ガイドのスワウィさんからモーニングコールが6時半、7時から食事、7時半に荷物出しで、ホテル出発が8時と、スケジュールをお聞きしていました。実際に起きたのは、6時前でした。モーニングコールの時には、全て出発準備が済んでいました。曇りでしたが、昨晩の天気予報では、回復に向かうようでした。
<早朝の散歩>
昨晩に続いてホテル界隈を散歩しました。モーニングコールが鳴った後、6時半に外出しましたが、あたりはまだ薄暗い状態でした。曇りがちで、殊更薄暗かったのかも知れません。
少し肌寒い気温でしたが、歩き始めるとその寒さが気にならない程度でした。一枚余分に着込んでいたことで、大分違っていたようです。朝早い時間ですから、さすがに人通りはありませんでした。そんな中でも、パトロールカーが横断歩道橋の近くに停まっていて、若い警察官の方が歩いてパトロールしていました。
路面電車も動き始めていましたが、車内の明かりで確認できたのは、数える程の乗客でした。その電車乗り場も確認して、カメラに収めておきました。最終日の自由時間の行動のためです。
昨晩と同じように坂を下って、ロータリーがある広い交差点まで歩きました。片道、10分とはかからない距離です。こちらでは、通勤バスなどが行き交始めていました。道路の案内表示には、トプカプ宮殿方面が記されていました。朝食に時間に合わせ、7時にはホテルへ戻りました。
<イスタンブール市内見学へ>
世界文化遺産に指定されたイスタンブール市内見学の後は、そのままアンカラへ向かって移動です。荷物を纏めての出発でした。全員が同じホテルに投宿していましたから、時間通り、8時の出発となりました。
少し冷え込んでいましたから、ガイドのスワウィさんは、防寒の用意を勧められていました。それと併せて、朝の内は、はっきりしない天候でしたから、雨具の用意も必要でした。寒さの方は、準備が役立ちましたが、雨具は杞憂に終わりました。
最初に向かったのは旧市街の大競技場址です。その場所からは、昼食の時間までは、歩いての見学となりました。
<大競技場址>
大競技場址は、正式には「ヒポドローム」の名称です。古代ローマ時代の戦車競技場址です。小さい頃、映画「ベンハー」で馬に引かせた戦車競争シーンを見ましたが、それと同じ場面のレリーフを、この遺跡址で目にしました。4世紀にコンスタンティヌス帝によって造られました。
この競技場の広さは、長さ400m、幅が150mあったとされます。収容人員が3~4万人と言う大規模なものでした。現在は三つの遺跡が残っているだけです。それを順次紹介します。
最初はテシオドウスのオベリスクです。もともとは、古代テーベ(現ルクソール)のカルナックのアメン大神殿にあったものです。トトメス三世が第7塔門の南に2本一対として立てたものの1本です。
4世紀にビザンチン帝国の皇帝コンスタンティウス二世の命令で、このオベリスクは一旦アレキサンドリアに運ばれましたが、最終的には皇帝テオドシウス一世の命令でコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に運ばれ、390年に、ここに立てられました。
碑文には、シリアのユーフラテス渡河など、紀元前1550年のトトメス三世の軍事的偉業を讃えている文章が読み解かれています。
二つ目が青銅製の蛇のオベリスクです。これも歴史的には重要な意味を持っています。ギリシャが、ペルシャを打ち負かしたペルシャ戦争(BC500~BC449)において、ギリシャ軍が決定的勝利を収めたのがプラタイアの戦い(BC479年)でした。その勝利を記念して、ギリシャのデルフォイのアポロン神殿に立てられていた記念碑です。その記念碑は、コンスタンティヌス帝の4世紀前半頃、この地に運び込まれたようです。
今は上部が折れてしまっています。3匹の蛇が絡みつき、三つの頭を持っていたという、当時の姿は想像する以外にありません。
3つ目が、謎に包まれたコンチタンチノープルのオベリスクです。切石積みのオベリスクとも呼ばれています。このオベリスクの詳しいことは分っていません。切石の表面は、元来は青銅で覆われていたようですが、現在は剥き出しとなり、表面には無数の穴が残っています。
これは13世紀初頭、ヴェネチア商人の侵入(第4回十字軍)に際して、彼らが貨幣鋳造のために削り取ったためとも言われています。
<ブルーモスク>
フリー百科事典の「ウィキペディア」を引用して、先にイスラム教の礼拝堂である、「モスク」について説明します。
アラビア語ではマスジド(masjid)で、「ひざまずく場所」の意味です。イスラム帝国がスペイン地方を占領したときマスジドがスペイン語に訛ってメスキータ(mesquita)となり、それが英語では更に訛ってモスク(mosque)となったとされます。ドイツ語ではモシェー(Moschee)です。モスクは、欧米や日本における呼び名です。しばしばイスラム寺院と訳されますが、モスクの中には崇拝の対象物はなく、あくまで礼拝を行うための場を意味します。
本題のスルタンアフメット・モスクのことです。外部からは想像がつきませんが、内部の壁が、美しい青と白のイズニックタイルで飾られていることから、通称、ブルーモスクという名で、広く知られています。
アヤソフィア大寺院と向かいあうように建っている優雅な6つの尖塔を持つブルーモスクは、1609年に着工され、1616年に完成しました。建築家メフメットによって建てられました。このモスクは、夏の夕べには、光と音のショーが繰り広げられるそうです。
オスマンは建物の躯体こそ破壊しませんでしたが、キリスト教文化の中でも偶像崇拝だけは我慢がならなかったようです。偶像崇拝が禁じられるイスラムの教えに従って、モザイクは薄い漆喰で塗り固められ、はずされた十字架の代わりにアラビア文字によるモハメッドの言行を書いた看板に付け替えられました。黒地に金文字で木製の看板が掲げられています。書道文字です。
<アヤソフィア大聖堂を横目にトプカプ宮殿へ>
ブルーモスクとアヤソフィアは、綺麗な公園を挟んで行儀良く並んでいました。その中間点近くに椅子席があり、「ここが絶好の撮影ポイントです。どちらの建物も均等に見えます」と、スワウィさんが教えてくれました。暫くは記念撮影タイムです。地元の学生さんたちらしい方達とも一緒になって記念撮影をしました。
アヤソフィア大聖堂は、中まで入って見学は出来ませんでしたが、今は博物館として公開されています。
その数奇の運命を辿ったアヤソフィア大聖堂について、インターネット情報を参照しながら説明しておきます。
アヤソフィア大聖堂は、ギリシャ正教の総本山の教会堂として、ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝により325年に建設が始まり、360年に完成されました。
幾度か焼失後、ビザンツ帝国のユスティニアヌス大帝により537年に再建されましたが、オスマン帝国がコンスタンティノーブルを征服後は、大聖堂からイスラム教のモスクに改装されました。ギリシャ語でHagia Sofia、アヤソフィアとは、「神の知恵」という意味です。
中央に高さ54m、直径31mの大ドームがあります。1453年、メフメット二世が、ここでオスマン朝のコンスタンティノーブル征服を宣言しました。今に見る4本のミナレットは、モスクに改装されたあと、別々のスルタンにより建立されたためデザインが異なります。
創建された後、何回か焼失し、あるいはモスクに改造されるなど、幾多の変遷を経ました。それを年代順に纏めて記しておきます。
○360年に、ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝により創建。
○404年に、大火で全焼。
○416年に、再建。
○532年に、反乱により破壊。
○537年に、ビザンチン帝国のユスティニアヌス皇帝が、ビザンチン様式の大聖堂として再建。
○726年に偶像破壊が始まり、834年頃まで続いた。
○843年に、宗教シーンをテーマにしたモザイク画が完成。
○1204年に、第3次十字軍により財宝が奪われ、モザイク画の多くが損傷。
○1453年に、オスマン帝国の征服王、スルタン・アフメットにより、モスクへの改造命令。
○1700年に、残されていたモザイク画も漆喰で塗り潰し。
○1931年に、アメリカ人調査隊により、塗り籠められた壁の中のモザイク画を発見。
○1933年に、トルコ共和国によりモザイク画等を大修復。
インターネット情報の中には、現在もアヤソフィアの財産権を巡る争いが決着していないことも、最近のニュースとして載っていました。その数奇の運命は、まだ終っていないようです。
ビザンチン帝国が終わりを告げるまで、ギリシャ正教の大本山として崇められた時代と、モスクとしての時代が存在することで、聖地争いのベツレヘムのような背景があるのかも知れません。ただし、これは単なる私の推測です。
次に、アヤソフィアの建築や改造の中で、特筆すべき点を、インターネット情報を参照して記しておきます。最初に、ユスティニアヌス皇帝による537年の再建工事です。
その再建工事の工期は5年10カ月、木材は全く使用されず、完成までには延べ100人の監督と1万人の土木工や大工が働きました。 用いられた大理石は、地元のアナトリアは元より、地中海諸国からイスタンブールに搬入されました。巨大なドームを軽量に仕上げるために、煉瓦は特別にロードス島で焼いたものが使用されました。権力、財力、技術力に加えて信仰心と芸術的センスの結晶とされます。
次に、726年に始まった偶像破壊期と、その後の改装の模様です。
他の教会と同じように、アヤソフィアの宗教シーンや聖人を表現したモザイクは破壊され、簡素な十字架などがこれにとって代わりました。破壊の後は、皇帝の意向により宗教シーンをテーマにした金色の地の上にモザイク画で、天井や壁が美しく飾られました。
その後、コンスタンチノープルをオスマントルコが征服してイスタンブールと改名すると、1453年にオスマンの征服王、スルタン・アフメットは、ここをモスクに変換させるための命令を下しました。寺院の内装は大幅に変更されましたが、寺院そのものは破壊されませんでした。アヤソフィアが持つ不思議な運命と魅力の1つです。その後、イスラム神学校やミナレットなどが、次々と増築されました。
<トプカプ宮殿>
フリー百科事典の「ウィキペディア」を参照して、トプカプ宮殿について説明します。まず、トプカプ宮殿の名前の由来ですが、トプカプ宮殿の丘がある岬の先端にある「大砲の門」が、トルコ語で「トプカプ」であることに因んでいます。19世紀に、この宮殿から皇帝が去った後の呼び方です。現地ガイドさんも、最初に教えてくれました。
トプカプ宮殿は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住しました。イスタンブール旧市街のある半島の先端部分です。三方をボスポラス海峡、マルマラ海と金角湾に囲まれています。
メフメト二世が、1460年代頃造営を開始し、1478年頃までに完成しました。メフメト2世がここに居を定めてからは、「新宮殿」(サライ・ジェディードあるいはイェニ・サライ)と呼ばれ、また、イスタンブールに営まれた多くの宮殿のうちの正宮殿として「帝王の宮殿」(サライ・ヒュマーユーン)とも呼ばれました。
その以降は、1453年にコンスタンチノープルを征服して以来の宮殿は「旧宮殿」と呼ばれるようになりました。
宮殿は君主の住居であると同時に、オスマン帝国の行政の中心地として機能しました。君主(のちには大宰相)が主催するオスマン帝国の最高意思決定機関である御前会議(ディーワーヌ・ヒュマーユーン)は、宮殿の「ドームの間」(クッベ・アルトゥ)と呼ばれる部屋で開かれ、古い時代にはさらに「ドームの間」の隣には中央政府の書記局と、帝国の公文書や宝物・税金を蓄える国庫が置かれました。
17世紀中頃に大宰相の執務所と書記官僚の文書行政機構が大宰相公邸である大宰相府(バーブ・アーリー)に移ると、宮殿はオスマン帝国の最高政務機関としての実質を失いました。
その後もトプカプ宮殿は皇宮として、帝国の儀礼と公式行事の中枢でしたが、1853年に宮廷が西洋風のドルマバフチェ宮殿に移ってからは放置され、荒廃しました。
トプカプ宮殿が修復された上、博物館として一般に開放されたのは、トルコ共和国となった1924年のことです。今回の旅行では1時間以上の自由時間がありましたから、比較的ゆっくり見学できました。
最初の帝王の門を潜ったところに警備の兵隊さんがいましたが、「写真を撮ってもいいですか?」とデジカメを見せて確認しましたら、笑顔で「OK]サインを出してくれました。
<ハレムについて>
日本語では「ハーレム」と表記されることが多いですが、学術的にはトルコ語の発音に近い「ハレム」の表記が一般的とされる「ウィキペディア」の説明に従い、この小冊子では「ハレム」に表記を統一しておきます。
オスマン帝国のハレムには、美人として有名なカフカス出身の女性を中心とする多くの女奴隷が集められ、その数は最盛期には1000人を越えました。現地ガイドのスワウィさんも、ハレムの説明の時、同じ人数を挙げられていました。
戦争捕虜や、貧困家庭からの売却によって奴隷身分となった女性たちは、イスタンブールで購入されると君主の宮廷のひとつに配属され、黒人の宦官によって生活を監督されながら、歌舞音曲のみならず、礼儀作法や料理、裁縫、さらにアラビア文字の読み書きから詩などの文学に至るまで様々な教養を身に付けさせられました。その後、侍女としてスルタンが住まう宮殿のハレムに移されました。
スワウィさんは、ハレムは黒人宦官、王宮の警護は白人宦官が警護に当たっていたと説明されていました。
当初、ハレムは旧宮殿に残されていましたが、スレイマン1世の時、このトプカプ宮殿に移されました。ハレムの人々は、スレイマンの夫人ヒュッレム・スルタンを端緒として16世紀後半頃から政治に介入するようになり、17世紀には君主の母后が政治を自由に動かす「女人の天下」と呼ばれる時代を迎えました。
ハレムは君主の母后、妃、子供たちと、それに仕える多くの女官や宦官が暮らしていました。政治の中心が移った後年、帝位に就いていない皇族である君主の弟や甥たちが暮らす「鳥かご」(カフェス)と呼ばれる部屋も設けられました。
トプカプ宮殿のハレムの見学は、外廷の「ドームの間」の側にある「車の門」から入ることになります。今回は、時間の都合で外観だけを見学し、ハレムの内部までは見学しませんでした。
ハレムの見学は、別料金です。時間を切って、グループ単位に行われるようです。そんな事情で、インターネットで探し出したハレムの写真を紹介しておきます。(写真省略)
<ハレムの権力闘争>
新しい皇帝の母になれなかった側室たちや、皇帝の子を産むこともなく失寵した側室たち、また「幸運」に恵まれず寵愛を受けられなかった侍女たちの運命です。
時には皇帝から重臣に下賜されることもありましたが、多くの場合、皇帝の死去とともにトプカプ宮殿外の「嘆きの家」という離宮に移され、年金を与えられて静かに余生を送る運命でした。
ところが、征服王メフメト二世からの掟により、スルタンに即位した皇子以外の皇子達は、全て死刑にされる事になりました。また、代が代わった場合、前皇帝の妊娠している側室たちは、生きたまま袋に詰められ、ボスフォラス海峡に沈められる事になりました。
ところで、スルタン・メフメト二世(1432年~1481年)は、オスマン帝国の第7代君主です。コンスタンチノープル(コンスタンティノポリス、現在のイスタンブール)を征服して、オスマン帝国の版図を大幅に広げ、征服王と呼ばれました。
このように、厳しく、その立場は不安定極まりなかったオスマン帝国のハレムの女性達の間で、権力闘争が激しくならざるを得なかった状況があったようです。
<トプカプ宮殿のレイアウト>
トプカプ宮殿は、大きな建物を持たず比較的小さな建物と部屋が連なり、また数多くの庭園と離れ(キョシュク)を持つ建造物群です。このことから、「中央アジアの遊牧民的な伝統に基づいた宮殿」、と説明されることがあります。因みに、キョシュクは、日本で使われている駅の売店のキヨスクの語源となっています。現地ガイドさんも、遊牧民からの文化の影響については、何度か言及されていました。
宮殿のある丘は、古代ビュザンティオンのアクロポリスのあった場所に当たります。宮殿の外壁はこの丘を大きく囲み、外壁内の総面積は約70万平方²程です。宮殿の正門は、アヤソフィアの側にある「帝王の門」(バーブ・ヒュマーユーン)となります。
「帝王の門」を潜ると、「第1の中庭」に入ります。オスマン帝国時代も現代も、一般の人々が自由に出入りできます。東ローマ帝国時代の遺構であるアヤ・イリニ教会もここに位置します。
「第1の中庭」の他の「帝王の門」内の空間は、君主の庭園や離宮が営まれており、タンジマートの指針を宣言するギュルハネ勅令が発布されたギュルハネ庭園が残されています。
外壁内の宮殿敷地の内側にある、第2の城壁で囲まれた縦横200m×400mほどの長方形の空間が、君主の私邸であるトプカプ宮殿の本体部分です。その内部は、行政と公式行事の行われる場である外廷(ビルン)と君主の私生活の場である内廷(エンデルン)、そして女性たちの住む後宮(ハレム)の三つの部分からなります。
「第1庭園」の奥にある「挨拶の門」(バービュッセーラム)が宮廷の入り口です。かつては、許された者しか入ることができず、現在はトプカプ宮殿博物館の入口となっています。
「挨拶の門」の内側は「第2の庭」と呼ばれる、公式行事に使われた広場で、これを外廷の施設が取り巻く。御前会議の開かれた「ドームの間」や国庫はその一角に位置する。かつての国庫は、現在は武具展示室となっています。
「第2庭園」の正面奥には「幸福の門」(バービュッサーデ)とよばれる門があり、その奥にある「謁見の間」(アルズ・オダス)と呼ばれる建造物を中心とする「第3庭園」とそれを取り巻く施設群が内廷を構成しています。内廷には君主の私室(ハス・オダ)や、有名な「トプカプの短剣」が展示されている宝物庫があります。
内廷では、数百人のイチ・オーランと呼ばれる君主の小姓たちが、私室や財宝庫などの管理役を勤め、君主に奉仕しました。小姓たちはここで幹部候補生として高度な教育を受けて、外廷の職や軍の将校などの要職につけられ、また内廷で私室長や太刀持ち役などの皇帝側近の重職に出世すれば、地方総督職などを経て、将来的には宰相にまで出世することが可能な制度が確立されていました。
後宮(ハレム)の入り口は、外廷の「ドームの間」の側にある「車の門」と内廷の皇帝の私室の脇にある「クシュハーネ門」があります。
<昼食の後、アンカラへ>
世界文化遺産のイスタンブール市内の見学を終え、昼食はシシカバブーでした。それにポテト料理と野菜、春巻き風の揚げ物と、ご飯も副えられていました。
車は欧州サイドから、橋を渡ってアジアサイドへ向かいました。越えた橋は、ボスポラス海峡に架かっているものです。やがて郊外へと向かいましたが、最初は歴史を思わせる建造物、次に中高層のマンションが見え、そして郊外の風景へと変わり、やがて日も落ちました。
<アンカラ到着、夜の散策>
アンカラへ到着したのは、7時半頃から8時頃だったようです。夕食はホテルのレストランでした。この日もワインを注文しました。その値段です。地元ワインのフルボトルが30トルコリラ、ハーフサイズの場合が17リラ程度、グラスの場合が7リラ程でした。この値段は、各地で余り変わりませんでした。そのトルコワインですが、飲んだものは、共通して白は爽やかでフルーティ、赤はタンニンが少なく軽目と言った印象です。アナトリア地方はワイン7千年の歴史を持ち、世界最古との評判もあります。
食事の後は、ホテル界隈を散歩してきました。泊まったホテルはホテル街の一角にありましたので、前の通りを左右に散歩してきました。ホテルを出て右手の方向は、何となく怪しげなお店が並んでいましたし、その場所を過ぎると急に暗くなりましたから、その反対方向に歩きました。
近くには、大衆食堂やコンビニも何軒かありました。その先で、道路が広くなってバスターミナルがありました。こちら方向は緩い上り坂でした。居酒屋がなく、夜はコンビニで買ってきたペットボトルで水割でした。
大競技場址で
戦勝の碑は運ばれて遠き地に次の戦の勝者の町へ
ブルーモスクで
円形の巨大燈具は整然と淨きモスクの床を照らせる
アヤソフィアで
ミナレット数奇の歴史標す如ドームの四囲に姿違える
トプカプ宮殿で
声掛けて笑顔絶やさぬ衛兵は年まだ若く城門に立つ
ギリシャ世界遺産紀行③(デルフィ遺跡)(by funasanさん)
カランバカで昼食を済ませた後、バスに乗って一路南下(約210km)し、世界遺産「デルフィ遺跡」に向かう。デルフィは古代ギリシャの宗教の中心地として栄えた所で、急峻なパルナッソス山(2457m)を背後に、眼前には広大なオリーブ畑(オリーブの海)、そして、遠くにコリンティアコス湾を望む。
写真:デルフィのアポロン神殿跡
私のホームページ『第二の人生を豊かに―ライター舟橋栄二のホームページ―』に旅行記多数あり。
http://www.e-funahashi.jp/
温泉のガスで神託を下した?!ヒエラポリス(by 古代遺跡な旅デスクさん)
パムッカレの石灰棚の上には、ローマ遺跡ヒエラポリスがあります。ローマ時代の温泉保養地で、神託がくだされるというアポロン神殿目当てでやってくる人も多かったとか。神託を告げた巫女は、温泉から出る有毒ガスでトランス状態に陥っていたという話もあります。トルコのわりと南部のほうで、気候がよく、赤いポピーの花が咲き乱れ、まるでギリシャの島で見るような、とってもステキな遺跡でした。
大自然の中のデルフィ(by ぼすとんばっぐさん)
ギリシャに来たら絶対に立ち寄って欲しいところです。遺跡と大自然に心が洗われマス。
(写真はアポロン神殿)
《ルート》移動「→」は全てクテルバス利用
12/12(月)
14:30カランバカ発→15:10トリカラ着(休憩)→15:30トリカラ発→17:30ラミア着。デルフィ行きのチケット購入→19:00ラミア発→20:30アムフィサ着→バス乗換え15分後、アムフィサ発→21:30頃デルフィ着
12/13(火)
15:30頃デルフィ発→18:30アテネ リオシオンバスターミナル着(11・8ユーロ)
※カランバカ→デルフィまでの直通バスはこのオフ期にはありません。(ピーク期は直通が運行している可能性有)一旦、カランバカ→ラミア(8.7ユーロ)/ラミア→デルフィ(6.5ユーロ)と、2区間のチケットを各バスターミナルで購入することになります。(ただしカランバカ→ラミアでは、一旦トリカラで途中下車をしました。チケットはラミアまでスルーで買えます)ラミア→デルフィ間では一旦、アムフィサにてバスを乗換えましたが、荷物の移動は全て運転手さんがやってくれたので難しいことはなかったです。ちなみにアムフィサ→デルフィは夜のキャバククラのようなバスに乗り、車内ライトは真っ赤ときどきレインボー(完全に改造している)、ハイテンションのラテンミュージックが鳴り捲りで「このままどこへ連れていかれるんやろ?」と不安でしたが無事デルフィに到着しました。バスはもちろん運転手によると思います。
※ラミアの降車場所はチケットカウンターのない停留所でした。カウンターは徒歩すぐの建物1階にありますが、少しわかりにくいので降りる際に運転手の方に確認すると良いと思います。ラミアの町は繁華街ではないので夜は少し恐かった。
※バスのチケットは基本的にはバスターミナル窓口で購入しますが、バスの中でも購入できるようです。デルフィの窓口が閉まっていたので、私たちはバスの中でアテネ行きを購入しました。
※現在のギリシャは鉄道より断然バスの方が発達しています。ボロボロのさびれたバスを想像していましたが(失礼)、日本の長距離バスや大型観光バスと同等クラスで、手荷物などは下のトランクで預かってくれます。違いは運転手が私服という点と、運転手とは別にアシスタントの男性が乗車している点くらいで、大変快適に移動が出来オススメです。(確かほどんどの長距離バスにはベンツマークが入っていました。車は大型で良いです!)鉄道は本数が非常に少ないので、ギリシャメインで移動する場合はレイルパスを購入するよりはバスを乗り継ぐ方が良いと思いました。長距離バスは『クテルバス』になります。
欧州・バックパッカーの旅【48】 ギリシャのエーゲ海・サロニコス諸島1日クルーズ(by さすらいおじさんさん)
10月28日、オモニア駅前のホテルから7:30発のバスでピレウス港に行き、エーゲ海・サロニコス諸島1日クルーズ船に乗った。ポロス島、イドラ島、エギナ島の3島を1日で回るクルーズ(83ユーロ・12450円昼食付)は人気があって4-500人の観光客でいっぱいだった。ピレウス港もずいぶんイメージが変わった。1971年にはエーゲ海めぐりの小さな観光船への客引きの少年がたくさんいたのに、今は立派な港になって客引きなど一人もいない。そればかりか、10月26日にピレウスに来て、港の旅行社でポロス、イドラ、エギナを個人で回る見積もりを頼むと断られて、隣の旅行社に行けとたらいまわしされた。3つ目の旅行社でやっと見積もってくれたが移動のスケジュールが忙しくて観光の時間が無いうえにトータル50ユーロもする。最初は安くて時間に制約なく島めぐりを個人でしようと思っていたが、便数が少なくコストも高いのでパッケージツアーのクルーズに変えた。
8:30に出発した観光船は10:45ポロス島着。ポロス島は東西10Km、人口4000人の小さな島。島への上陸は40分間だったが、高台にある時計台から見る光景がきれいだった。
船に戻ると昼食。グリーク・ダンスショーを見ながら、テーブルに同席した日本人2人、中国人3人と談笑しているうちに1時間ほどでイドラ島着。東西20Kmの細長い島に約3000人が住んでいる。1時間の上陸時間だったが、イドラ島は砲台から見る光景がきれいで、みやげ物店だけでなくスーパーマーケットもあって、離島なのにかなり食品が安かったので買い物をした。
3つ目の島、エギナ島は1971年以来2度目。島民は1万5000人とのことでサロニクス諸島の中で最も人口が多い。フェリー乗り場に近いアポロン神殿に行って、海岸で日光浴する。1971年にも海辺で海水浴をしたのだが、周囲の光景が変わっており、どのポイントだったか解らなかった。
エギナ島を2時間楽しんでピレウス港に19:40着。楽しい1日クルーズだった。
(写真はポロス島の時計台から見るクルーズ船と島の光景)
アポロン神殿画像
アポロン神殿の画像